誕生日を迎えました なんやかんや生きづらさをかかえつつも今年も歳を取ることが出来ました 生きづらさと死にたさは常々感じているけど、不思議なもので生まれてこなければよかったという気持ちになることはほとんどないです それもこれもきっと、周りにいる人たちのおかげだと思います 占い師に数年前に言われた事があって、あなたの宿命は孤独なので誰と居ても死ぬまで孤独ですって言われた事がもうずっと心に残ってて、ほかに言われたことは記憶から薄れていくのに年々それだけは重く残っていて、それを年を取るたびに実感して、辛くなってる たとえ相手の体温がわかるくらい近くにいて、長い時間一緒にいても相手のほんとうのところはわからないし、自分のことも伝わらないんだと思うとどうしようもなく寂しくて、でも冷静になればそれはそうだと思う 友達にそれを求めるのは難しいけれど、1人くらい安心できる人が欲しい でももうきっとどんな人でもそんなことは無理なんだと思う その事実が辛い 安らぎはずっとなくて、相手の本当に考えてることもわからなくて、相手が自分をどう思ってるのか分からなくて でも結局相手が行動してくれて、言ってくれた言葉を本当はどうであれ受け止めるしかないんだと思う

そのほとんどが偽りだとしても、行動は事実だから

現状をなるべくいいように受け止めるしか、幸せを継続させることはできないって最近思ってる。SNSを見てしまうけど普通に活字を読みたいのであれば好きな作者の本を読めばもっと満足できることがわかったし、無駄な物欲もわいてこない。人と争いたくないけど、同調ばかりは薄っぺらくて 

最近のこと 映画ドライブマイカーをみた 原作が大好きで、(村上春樹を読むのはこれが初めてだった)これは短編集の中でこの話がいちばん好きだったからさらに嬉しかった。映画は3時間もあって驚いたけど最近過ごした3時間の中でとても満足感のある3時間だった。原作を忠実に再現されつつ、短編集の他の話もでてきて、音楽も車の走行シーンもとてもよかった。今日は仕事の休憩中にまた読み返した。わたしは独立器官という話もとてもすきで、読み返してさらに好きだと思った。 友達にこの映画を見たと話したところわたしはあんまり好みではないかな、といわれそれは分かった上のことなんだけど少し悲しくなった。見てほしいとかではなくただ好きな映画に会えたんだ、ということを聞いてほしかっただけででもそれはエゴなので… わたしは友達に趣味が合う(そもそも語れるほどの趣味がない)子がほぼほぼいない。それでも友達でいられるのはフィーリングというか人間性の問題でただただ相性がいいとか、相手がやさしいからだと思う。ただたまに、このフィーリングが例え合わないにしろ、好きな作品についてその人の感想を聞きたくなる 現代はネットでいくらでも感想を観れるから、そういう意味ではありがたいなと思いました あと推しが同じ映画を見てて、わたしは推しがオタクに見せている一部分しか知らないけれど推しのことを知ることができて、推しも同じ作品を見ててとても嬉しくなった

こんなささいなことで幸せを感じられるから明日もがんばるか〜って思う

なにが欲しいのかわからない。評判のいいコーヒーミルが欲しいけど販売されなくて定価の倍近い値段で販売されてる。5万円のコーヒーミルて。3万円のスピーカーも欲しい気がするしかと思えば数千円のスニーカーさえ買えずに一年たってる気がする。欲しいから働くしかないのだと思うけど小さな嫌なことが溜まって自分でも嫌になるくらい不機嫌になっているとそこまでして欲しいのかそこまで働いているべきなのかわからなくなるしもうなんか適当な辺鄙な田舎に引っ越して古くて安いアパートで9時15時くらいのバイトでしばらく暮らしてみたいとも思う。貯金がすぐ底をつきそうだけど。推しにも友達にも会えないまま労働は忙しくなって日々小さな嫌なことが沢山あって死にそうにやっている 器が小さいし……… 毎日毎日限界を感じてもうだめかもしれないって思いながら自分を騙し騙し1日1日を過ごして冬きて春きて夏がきた 多分そのうち冬も来て今年が終わっていくんだと思う 安定した正しい生活を送りたいと思うし周りにそう言った人生を歩んでる人しかいないからそれがつまり大正解なのだろうと思う。わたしもそれになれるのであればなりたいし、なりたいと思いたいけどたぶんもうだめなんだと思う。結婚したいとまでは思ったとしても子供が可愛くて欲しいとは思えないけどきっと生み育てるのが正しいと思うし、でも生み育てるにあたってのプランを考えてるとどちらかの親が小さいうちは家にいることがその子供にとっての人格形成にとても影響があると思う。けどわたしは四六時中子供といられないし家族を養えるほど収入を得られるかというと現実的ではないしうだうだ考えるとそれにはなれないけどすっぱり諦められるわけでもないしもうどうにも無理 さよなら 

ネックレス

ここ数年ずっと欲しかったネックレスを買った。ほしくて、でも自分には高くて、でもほしいな〜ってずっと思ってて。本当であればお店に行って、実物を見て買うのが1番いいと分かっているけれどこんなご時世だしと言い訳をして店舗に行かずにオンラインで購入した。でもきっとコロナでなくてもオンラインで買ったと思う。自分には不相応というか、もったいない気がして、お店に行くのも緊張しちゃうから。ずっと欲しいと思ってたから買ったっていうのはもちろんあるけど、今年はもうお腹いっぱいなくらい辛いことがたくさんあった。まだ半年なのにもうこれ以上いいですってことが。だけど、たぶんまた半年分の辛いことがやってきて、2021年が終わるんだと思う。そして、唯一の趣味というか生きがいにに近い推しに会うことも思うようにできなくて、だけど仕事はずっとあって。ありがたいことなんだろうけど自分のために働くにあたって、労働時間はそんなにいらない。普通に休みたい。休んでも思うように遊べないけど。辛いことと、労働と、推しに会えなくて、でも現状のままなんとか過ごすしかなくて、だから自分にご褒美って言い方は好きじゃないんだけど買っちゃお〜って思ったんだ。

 

何年も前にネットで読んだ、西原理恵子さんの寿司と指輪は自分で買おうという記事を思い出した。たぶん私は生きてる間生きづらさを感じながらもずっと仕事をするだろうし、欲しいものは基本自分で買う人生なんだと思う。専業主婦のような人生を歩むことはきっとないだろう。(専業主婦は立派な仕事ですが、養われると言ったニュアンス) だから、いろんな意味で自立した人間になれるようにという気持ちも込めて買った。鏡をみて自分がつけてるネックレスを見て、がんばろ〜って思える気がした。f:id:Lanlan:20210616112728j:image

no title

つくづく人生難しいなって思う。入社したてはメンタルがぼろぼろだったけどそのおかげもあってか今より体重がかなり落ちて、でも毎日死にたくてつらくて会社から帰る道の踏切に2回だけ本気で入ろうかと思ったことがあるくらいには死にたかった。そこからいろいろあって仕事が落ち着いたと思ったら体重は増えるし、他のことがごたごたする。100%最高の状態なんてなくて、その時そう思えてたとしてもすぎて振り返ってみれば全然違ったりもする。その時そう思えてたのなら幸せかもしれないけどね。

わたしは19さいのとき、どうせ別れるなら付き合うことなんてしなければいいと本気で思ってたし、親に一度は結婚したらいい。別れればいいんだし。

と言われた時別れることで傷つくのなら最初から結婚なんてしなければいいとも本気で思っていた。

傷つくかもしれないのなら傷つかずに1人でいたほうが楽なんじゃないか、幸せなんじゃないかと思うし今もそう思う。でも孤独なのかもしれない。

 

別れたとしても、付き合ってる時楽しかったことは嘘じゃないしなかったことにもなりないから無駄ではないと言えるのはそれから完璧に吹っ切れてるからであって、そうなるには一定の時間が必要なんだと思う。その間は音楽なり小説なり映画にたよって、なんとか生きるしかないんだろう

わたしは男女問わず、基本来るもの拒まずの性格をしていると思う。だから、大きな問題がない限り相手との関係性を終わらせるのが本当に苦手で、相手がさってくれれば諦めるしかないけれど相手がいつまでもここにいるとわたしは求められればそうかと思ってとどまってしまう。だけど、それはお互いとっていい関係ではない。進まないし、止まってすらないし、もはや後退していると思う。誰かが強引にどうにかしてくれたら楽なのになあって思うのも、わたしの性格がよく表れてるよ 

こういう時に無駄に足掻いてもいい方向に進まないこともわかってるんだけど思うように生きれないなー

生きることは傷つくことだとつくづく思う くだらない人間関係や仕事 家族や友達、彼氏などの自分以外の人間に傷つけ傷つけられ本当にやってられるかと思う 死ぬほど不幸じゃないけど生きたいと思えるほど幸福じゃない たまに幸福を感じてそれに一時的に浸かって生きて結局ほぼほぼ不幸を感じてるのではないかと思う 恵まれた環境に見えても、飢え死にしなくても、人には人の不幸があって人には人のキャパシティがあるからそもそも第三者が何かいう権利なんてないんだよ 

傷ついて人間として深みが出るとか 人間性が変わるとかそんなのもうどうでもいい 死が救済だと感じるけどだれかに殺されたがってるわけでも苦しんで死にたいわけでもないよ 

1人でいても2人でいても3人でいても完璧な幸せなんてないんだし 早くどうにでもなってくれと思う

幸せになる努力をするのも惜しい